春の日の僕  僕が、窓の外にいる僕を見たのは、春がはじまった日 の昼に近い朝だった。あまりにも正確に僕そのものであ る僕が、休日の朝に似合う姿で、子供をつれて歩いてく る。その子供は、もちろん僕の子供だ。近づいてくる速 度は散歩の速度で、きっと、本当に散歩をしているにち がいない。そのような速度でさえ僕は、たちまち後ろ姿 になり、窓という、視界のフレームから消えてしまう。 消えてしまった僕は、明らかに僕ではなく、僕は寝床で 通りすぎたものについて考えている、つまり僕だ。妻を 呼んでみようかと思う。しかし、思うだけで決して妻を 呼んだりしない。このような場合に、あわてて行動をお こすと、きっと失敗するにちがいないことを知っている から。そして、このような風景の錯乱の原因の一部は、 やはり僕自身にあるにちがいないと考えているから、軽 軽には動けない。錯乱しているのは、風景なのか、ある いは僕自身なのか。一番あり得るケースは後者であろう。 つまりは、僕は、狂人か、などと思いをめぐらしている と、例のフレームの左のすみに、小さく僕の姿が見える。 ああ、僕が帰ってくるという思いは、ほっとするものだ。 そろそろ昼だから、僕は食事に帰ってくる。そこには、 ひとつも不思議はない。僕が僕であることを納得するに たる、うららかな春の休日の行動のパターンだ。僕は、 去っていった時と同様に、散歩の速度で帰ってくる。ま もなく、窓のそば。子供の声が聞こえる。僕の声が聞こ える。ちょうど窓の正面までくると、外にいる僕は、僕 のほうを向いて「や、風が気持ちいいよ」と笑顔でいっ て通りすぎた。もちろん、僕も微笑んだ。その瞬間、僕 は僕を、気のいい奴じゃないか、なんて思ったわけだ。 話し合ってみたいな、とも思っていた。それなのに、な ぜか僕は、いつまで待っていても、僕の家に入ってはこ なかった。